ジェロントロジー国際総合会議2009inインド
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ジェロントロジー国際総合会議2009 in Indiaを振り返って

ジェロントロジーセンター所長 高橋 亮

 インドのヴィシャカパトナムにおける国際ジェロントロジー総合会議は、2003年から準備されてきた。そのきっかけとなったのが、2002年の3月に福島県郡山市で開催された国際知的障害研究協会国際円卓会議であった。この会議の準備にあたって、ある日インドのT. Saraswathi (Sarah) Deviという女性からメールが届き、「是非参加したい」とのことであった。ただし、空港券も宿泊費も出せないので助けてほしいということであった。参加者は、海外から自費で来るのが当然と考えていた私は戸惑ってしまった。そこで意見を関係者にうかがったところ、断るべきということがほとんどであった。
 困惑した私は、国際会議をするにあたって、これまで参加者はアメリカ、ヨーロッパからの顔ぶれがほとんどでインドからの参加者は見たことがなかった。そこで再度考えて、インドのSarah女史に電話をして本人の参加趣旨を確認することにした。私を含む運営委員は船引町(現 田村市)の障がい者自立生活支援センター「福祉のまちづくりの会」のメンバーを中心に構成され、皆ボランティアでかつ国際会議を実施した経験もない中で準備をしている最中であった。そして、3月のまだ寒い日本の福島県郡山市で開催される国際会議に一年中暑い南インドからSarahも来日した。
 これまで、1人で海外の会議に出席してきた私にとってSarahが全く文化や環境の異なる日本の地に来ること自体が本当に大変なことであると感じた。

 開会式にあたって、ともひと親王殿下の基調講演をいただき歓迎会をする折に、Sarahが私のところにきて、疲れてホテルに帰りたいのでバス停を案内してほしいと伝来してきた。当日、寒く風が強くて、かつバス停は会場から少し離れていたので、そこまで案内した。が、1人でバスに乗っても、英語の案内もないので大変だと思い、一緒に乗ってホテルまで案内して、私は会場へもどった。

 翌年にあたる2003年にSarahから連絡がきて、今度は私にインドへきて指導をしてほしいと依頼された。いうまでもなく、力不足の私が行くよりも立派な諸先生がいるので、紹介する旨をお伝えした。しかし、Sarahは、私に来てほしいということで困ってしまった。41歳になってようやく大学に就職したといっても、5人の子どもを養う身にある私が自費でインドへ行って、インドでホスピタリティで賄うという依頼はいくら私でも考えこむ依頼であった。
 しかし、たとえインドへ行って何もなくても、人生における悔いは残したくはなかった。

 ようやく夕方インドへついて、翌日講演の予定のSarahの運営する知的障害のある子どもたちを対象とする学校Lebenshilfeに到着したが、何も準備がされていなかった。困惑した状態で何人の参加者が来られるのか尋ねたところ、200名前後の保護者やスタッフが来られるとのことであった。それで、グループディスカッションもできるようにグループ分けを名簿順にして会場をグループ別に分けるように依頼したところ、翌日にはしっかりと椅子もテントも準備されていたことに驚いたのが、インドにおける会議準備の初めての経験であった。
 この際、なんで私のような者をインドまで呼んだのか尋ねたところ、Sarah自身が、様々な国際会議に参加してきたが会議の最中に責任者が直々会場をあとにして参加者を支援する姿を見たことは初めてで大変驚かれたとのことであった。私としては当然のことをしたのであって、会議よりも参加される人のほうがもっと大切と考えて行動したにすぎない。
 このインドへの訪問を契機に私は、Sarahにインドで国際会議の準備をすることを提案して具体的な日程も決めた。それが今回開催されたインドにおける国際ジェロントロジー総合会議のシナリオである。

 このビジョンのもとに2004、2005、2006年と毎年3人の娘を一人ずつ交替して訪印し、母を含めてインドへ足を運ばせるようになってしまった次第である。
 このような経緯の中で、Manuelとの出会いがあり、ケアフィットをインドに設立する機会が生じた。政府認可組織としての登記には3年かかったが、これを契機にインドとの交流がさらに活発化するにいたった。
 そしてある日、アンドラ大学の福祉関係の学会でManuelがケアフィットの提供するサービス介助士のトレーニングやこれらを網羅するジェロントロジーの哲学を発表した。そのことがきっかけとなり、2007年にアンドラ大学と日本ケアフィットサービス協会の提携のもとでAU・NCSAジェロントロジーセンターが設立されることになった。
 しかし翌年訪印した際に、奉納された研究室を訪問したところ、誰も指導することができず、頂いた大学の研究室も物置と化していたことに愕然とした。そこで私は自ら動かなければなにも動かないことを悟ったのである。そこで家族を伴いインドに住み着く覚悟をしたのであった。
 インドから帰国して家族に説明した。その後、子どもたちの教育の問題、熊谷に住んでいるときに使っていた車やピアノなどすべてのものの処分を少しずつしていくことになった。結局は、引っ越しの当日まで家の荷造り、処分で時間を要し、教会の扶助協会の姉妹たちの助けなしには準備をすることは不可能であった。皆さんの助けに心から感謝する次第である。

 仕事をするにあたって、単身赴任でことをなすことは簡単なことであるが、家族が一致せずにことをなすことは絶対にできないことを私は青年時代から学んでいた。「いかなる成功も家庭の失敗を償うことはできない」という金言からである。
 私たち夫婦にとってもっとも大切なのは、子どもたちの将来である。自分の仕事で子どもたちの将来をダメにすることはできない。そのころ長男は大学を休学してアメリカで2年間の伝道の召しを受けた。
 長女は、アメリカの高校を卒業して日本に帰国することが決まっていた。次女は公立高校1年生で全国大会に毎年出場する空手部に所属して毎日夜10時過ぎまで練習をして帰る生活であった。そこで外国でも学べる通信教育の高校をすべてチェックして教育内容と授業料を含めて本人の了解のもとで編入をすることにした。
 次男は中学2年生で軟式野球に燃えていた。親友もたくさんできて甲子園に出てプロ野球の選手になることが夢であった。インドでクリケットをできることを話してもインド行きは絶対反対であった。そこで本当にプロを目指すならそれなりの学校が必要と思い、全国の全寮の中学校を探して硬式野球部の練習内容と学校の教育内容と学費も確認した。そして青森に可能性のある学校があるので息子と夜行バスに乗って行き、野球部の監督や学校の校長先生にもご相談に乗っていただいた。その結果、紆余曲折があったが、今は青森でしっかりと自分で目標に向かって頑張っている。
 ということで、妻と高校生の娘と小学6年生の娘を伴ってインドに移住することになったが、家族にとって物理的にも精神的にも決して容易な準備期間ではなかったが、結果としては本当によい選択をしたと確信している。

 次に、会議の内容を検討するにあたり、沖縄では2007年に「Youth is a gift. Age is an art.」というテーマで国際会議が開催された。報告書も作成し、将来のジェロントロジー共育にあたる内容の濃い結果をみることができた。
 しかし、スポンサーの欠如も含み、多大なる会議費も要した。 その経験を反省としてインドではそのような多大なる経費をかけないで質の高い会議を行うことが必要であると感じた。
 人は誰でも、旅費や宿泊費を提供されるなら将来に期待されるインドに関心をもつことは疑わないからである。しかし、今回は経費をもって招待する人は、限定しなければならないと肝に銘じていた。結果として、1名の特別基調講演者の枠を除いてすべての方々が自費で会議に参加してくださることになっていった。

 この背景には、今後のジェロントロジー共育活動にあたっては、本物にふるいを絞っていくことが求められるとも感じていた次第である。本物とは、研究のみならず、それに加えた熱いものを感じることのできる集団を築いていくことが必要と感じたのである。
 そのような準備過程の中で、同胞である冨山県八尾出身の剣道師範堀川惇志氏と北陸先端技術大学のプロ将棋棋士飯田弘之教授にこの会議の趣旨を話したところ、越中八尾おわら道場の代表者である庵進氏を御紹介いただいた。その際に、おわらの踊りは、伝統芸能であるとともに即興性を求められる生きた芸術表現舞踊であることを学び、ジェロントロジー共育との共通点を直感した次第である。
 そこで、昨年すでにエジプトのピラミッドを舞台に公演経験のある庵氏にインドでの公演を依頼することになった。驚くことに参加者18名が自費にて参加してくださることになってしまった。
 当日の踊りを見て娘は、「日本人で本当によかった。私はもっと日本を知りたい」と語った。国をこえてそこに居たものは皆そう感じた。本当にうれしい気持ちとともにこの舞踊が醸し出す将来の一大事も脳裏に浮かんできたことも回想している。

 インド国際ジェロントロジー会議の準備にあたって、本会議の顔となる人物は誰になるかをいろいろと模索をした。はじめは、政治家ソニア・ガンディ氏がダ・ヴィンチの生まれた地イタリアの出身であることが、今後のプロジェクトとインドの将来にあたって影響があると感じ、デリーの事務所にもオートに乗って娘とともに足を運んだ。そして色んな形で援護も受けたがいま一つしっくりといかないことを感じていた。
 そのなかでアブドゥール・カラム前大統領の存在を知り、学ぶことになった。彼に関する書籍で購入できるものはすべて目を通した。そのなかでカラム博士は、インドの国民の星であり共育のヒーローであることも確認できた。カラム博士は、学者を超えたインド歴史に刻まれる哲学者になっている。それを確信したのが、カラム博士の著書Guiding Souls とWings of Fireである。すなわち、本会議の目的は2012年4月15日(日曜)にレオナルド・ダ・ヴィンチの560年生誕記念を迎えるにあたって、この日がアブラハム・リンカーンの命が失われた日でもあること。そして、2012年12月23日がマヤ暦の最終の暦を示していることを含めて、人間構築のルネッサンス(文芸復興)すなわち人間の価値観を見直してそれを実社会に還元する歴史を刻む年になるであろうことを予期体感しているのである。
 それがいま、「ダ・ヴィンチ 気がつくプロジェクト2012」として世界に認知され、今回のAGHE(ジェロントロジー高等教育協会)会議でも公式に国際委員会にて発表され、2009年7月にフランスのパリで開催される国際老年学・老年医学学会にてもこのプロジェクトのシンポジウムがプログラムの中に企画されている。

 インド会議にあたって多くの人々がカラム博士の講演を依頼すべく動いてくださった。そのようななかで、2009年3月12日の国際ジェロントロジー会議の日が来てしまった。
 当日までどうなるのかわからなかった。カラム博士の講演の時間も、数日前に午後から午前に変更になる要請がカラム博士自身から事務局のラジュ教授のところに入った。すべては運を天に任すだけであった。
 そして当日、カラム前大統領が実際に来られて、3000人(5000人とも聞いているが)余りもの聴衆のなかで講演をしてくださった。その情景を回想すると魂が高鳴り、正直、今でも信じられないというのが実感である。しかしそのときの証として写真にもDVDにも収まり、日本から来られた畑中稔理事長もカラム博士と共に写真に写っている。伊藤幹雄さんもしっかり取材をしてくれた。グルメットさんも日本とインドの観光関係の調整をよくしてくださった。おわら道場の方々もはるばる富山から8時間のバスに乗って関西空港へ移動し、インドまで2回乗り換えをして、仏陀の直弟子が集まった聖なる遺跡(ノーベル平和賞受賞者ダライ・ラマ氏も訪れている)トトラコンダへ趣き、奉納の踊りを朝日と同時にささげられ、アンドラ大学歓迎式典と翌日の文化芸術交流会にも踊りを披露されて新聞にも報道された。
 また、インドの絵を40年に渡って描き続けてこられた井口啓先生がこの日のために、絵画「夕べの祈り」をヴィシャカパトナム美術館に寄贈され、また井口先生の絵画をお弟子さんの田中洋子氏がカラム前大統領に寄贈された。そしてこれに加えて井口先生は、日本を象徴する記念としてカラム博士に「胴丸鎧」を日本から絵画とともにインドまでもってきてくださった。
 すべてのことに対してお礼の言葉も十分にできなかった始末である。今、私にできることは、「本当に、本当にありがとうございます。」と言うとともに、これからも、これらの皆様の才能や思いやりある紲を繋げていくことが、これらに対する恩返しであると感じている。

 午後からは、基調講演としてAGHEを代表してAnsello博士が発表され、前日日本を出発し、夕方から空港に着いてそのまま会場にきてくださった足利工業大学の小林敏孝先生が睡眠研究のおよぼすジェロントロジー研究について発表してくださった。そして、たった数時間インドに滞在され、翌朝には帰国されていった。そのバスの道中で、井口先生と小林先生の二人で2011年のロシアの会議に向けての話にも花が咲いたことも脳裏に焼き付いている。

 インドでの会議おいては、準備・調整不足で参加者の皆様には多々ご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げる次第である。しかしながら、発表の内容を含めこの会議自体は、世界のジェロントロジー会議においてこれまでなかったIT、ビジネス、教育、芸術を含む包括的ジェロントロジー国際会議であった。とくに、インドの文化背景にヨガ、瞑想をとおしての気づきに対する理解が浸透していることから睡眠研究との関連もしっかりと科学と哲学思想に融合することができた。
 実際に、閉会式での参加者らのコメントを含めて世界を知るジェロントロジー研究者らから、このようなアプローチの会議には参加したことがなく、今後の参考にしたいという評価を受けた。これら評価は単なる称賛ではなく、今後のジェロントロジー共育において重要な共育哲学をなすことを確認している。加えて、アンドラ大学学長Beela Satyanarayana教授、副学長B. Parvathiswara Rao教授、事務局長P.V.G.D. Prasada Reddy教授、心理学部長兼大会事務局のRaju教授とともに、国際知的障害研究協会(IASSID)代表のJanicki博士、AGHE代表のAnsello博士、Lucchino博士、北陸先端科学技術大学の飯田弘之教授、上越教育大学の細江容子教授、そしてサービス介助士の資格を有するピアノ講師齋藤美香さんの出席のもとで意見交換会議があり、アンドラ大学でインドを先端とするジェロントロジープログラムを開発しWHOとの協力アプローチも含めて世界に貢献する意向と協力をサテャナラヤナ学長より公式依頼されたことはとても意義深いことであるとともに、既存の学問体系では成し得ることのできないことを感じている次第である。

 最後に、この会議の趣旨は、研究者が主役ではなく、この地域に住み支援を必要とする家族が主役としてこれらの光陰を受けていくことにある。それにあたって、会議の前日にSarahの学校で開催された相沢るつ子先生とJanicki博士およびLucchino博士のワークショップのまとめの際に、家族の会を組織して団結すべく宣言書をまとめることが提案された。
 これを契機に単一的に教育活動が行われてきたことが今後、枠や組織団体をこえて地域づくりに貢献できる活動が展開されていくことを切に祈る次第である。その動きが、会議の終わった翌週から蠢いている。
 そして翌週、そのワークショップに参加された障がいのあるお子さんをもつ弁護士の夫婦とシニア団体の代表の方が宣言書をもって自宅に訪問してくださった。

 これからも見えないものに行動によって気づき、それを結び築いていければと願い、祈り、行動している次第である。この会議を準備するにあたって支えてくださった皆様に心からの感謝の意を表したい。

 
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